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卒業生オーラルヒストリー・アーカイブ

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幼稚園教諭の仕事に正解はない

人文学部心理・社会学科人間発達学専攻こども発達支援コース 2012年3月卒業

伊藤亜希子 さん

2008年にこども発達支援コースに入学した際は、幼稚園の教諭になるという夢がはっきりあったわけではなく、ピアノやもの作りが好きなので、このコースが合っているかな、資格があると職業を選ぶ幅が広がっていいかな、くらいの気持ちでした。しかし、和洋での4年間がとてもよい経験になっており、先生方も温かく、友人にも恵まれて、その4年間があっての今なのだ、ということを強く感じています。3年次の夏休みに、インターンシップで市川市役所へ行き、子育て支援課で2週間を過ごしました。そこで、子どもと関わるとはいえ、いろいろな仕事があることを知り、その上で教育実習の経験を経て、やはり自分は幼稚園で働きたいのだ、と考えるようになりました。自分の進路決定に大きく結びついた4年次の教育実習は、とても大きな意味をもっていると思います。
卒業して最初の1年間は、東京都特別区の公務員試験は受かったものの、希望の区への入庁が決まらなかったため、非常勤で幼稚園の預かり保育をしたり、他大学に編入して小学校教諭の教職課程の勉強をしたりしました。翌年も特別区幼稚園を再受験し合格しましたが、また希望の区への入庁が決まらず、併願先の地元の自治体に保育士として入庁しました。保育士として働く中で、幼稚園教諭と保育士の仕事の違いを感じていた際に、現在の勤務先である東京都内の自治体から採用の声をいただき、教諭に転じて現在に至っています。幼稚園教諭としての1年目や2年目は、すべてが初めてのことだらけでした。3年目以降になって、ようやく行事の内容なども把握でき、事前にどういう計画を立て、どういう準備をすればよいか、見通しももてるようになってきました。
この仕事に絶対の正解はない、ということは今も思っています。学級によって幼児も実態も異なり、自分の学級ではどう進めようかと教材研究をしたり、日々の保育を自分で評価・反省したりしながら勤務にあたっています。時には手探りで進むこともあり、他の先生たちのやり方を見て学ぶことも多いです。子どもに愛情をもって関わり、全員にとって楽しい学級にしていきたいです。勤務先の幼稚園には事務の方がいないので、事務系の仕事も多く、行事の前などは特に仕事は忙しくなります。しかし、保護者の方から、「先生は天職だと思いますよ」などと言っていただけることもあったり、子どもの成長を目の前で実感できたりするなど、やりがいのある職業だと思っています。
和洋女子大学は、学生の数が少ないこともあり、先生方との距離が近かったことが良かったです。メディアセンターの読書フェスタや学生会のクリスマス会なども印象に残っています。手話サークルに入っていましたが、卒業後に小学校で教育実習をした際に、手話の通訳をするという場面ができ、これまでに学んできたことは必ずどこかで役に立つのだと思いました。大学の授業で作った教材や物などは、今でも大切にし、仕事でも使っています。実習で悩んだり戸惑ったりしている学生に対しては、その経験は無駄にならないこと、目標をもって進んでほしいと伝えたいです。今は幼・小の連携が話題になっており、和洋でもそれを視野に入れるとよいかなと思います。(2016年1月23日 於本学)
 
 

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ESSで活動し、英語を使う仕事につき、現在育児休業中

人文学部英文学科  2005年3月卒業

佐々木優子 さん

2001年に英文学科に入学しました。家の近くに佐倉セミナーハウスがあるなど、和洋のことはずっと前から知っており、身近に感じていました。また、小学生のころから英会話教室に通うなどして、英語が好きだということもありました。
和洋女子大学の英文学科に入学してからのことでは、清川英男教授のゼミで指導を受けたことや、やはり清川教授(後に佐久間みかよ教授)が顧問であったESSの活動のことが、最も印象に強く残っています。
2年次から部長になって、大学祭の時にはスピーチ・コンテストを開催しましたし、他の大学と交流して、一日中英会話で過ごすというようなこともありました。
大学で身に付けたいこととして、英語を話せるようになるということがあり、授業はどちらかというと文学関係が多かったので、会話はESSでやればいいというのがあったのだと思います。
2年次の夏休み、自分で斡旋する会社などを探し、バンクーバーに留学して、ホームステイで1ヶ月を過ごしました。そこで、英語がまだ全然話せないということを感じ、がんばらねばと思ったことを覚えています。
パイロットをしていた父がホームステイ先を訪ねてきて、普通に英語を話すのを聞いて、やはりすごいな自分もそうなりたいなと思いました。そうして、勉強により力が入るようになった気がします。
英語を使う職業ということから空港で働きたいと思うようになり、そのためもあって毎回TOEICの試験は受けていました。 2005年、JALスカイサービスに入社し、成田営業所で働くようになりました。
3年後にサブリーダー、さらに4年後にはリーダーとなり、2012年に結婚したことをはさみ翌年に羽田営業所へ異動しました。その翌年に子どもを出産し、現在は育児休業中です。
仕事に関して言うと、成田では、チェックインカウンター・搭乗口・ラウンジといった部署に分かれ(羽田ではそうした部署がなく、すべてがミックスしている)、他の航空会社の代行をするカスタマー部門もありました。
自分の伝えたいことがうまく伝わり満足して貰えた時、コミュニケーションがうまくできた時は、やはりやっていてよかったと思います。97%が女性の会社なのですが、羽田は24時間体制なので子育てをしながらの勤務という人は少ないです。保育園が少ないということもあり、自分もこれからどうするか考えています。
学生時代をふり返ると、学外にも友人ができたことで、情報量も増え視野も広がりました。今でもその頃の友達とは交流が続いています。単位互換なども興味があったのですが、うまく取れませんでした。
就職に際しては、履歴書や面接の対応など、担当課の職員の方によく面倒を見てもらい、とても感謝しています。皆さんもぜひ活用されるとよいと思います。何でも自分が一歩を踏み出すことが大事だと感じています。
(2016年2月8日 於ウィシュトンホテル・ユーカリ)
 

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留学・編入・大学院、そしてこれからを考える時

人文科学研究科英語文学専攻  2013年3月卒業

野辺亮子 さん

小さいころから音楽が好きで、嘉悦女子中学校・高等学校(現在のかえつ有明中学校・高等学校)時代は、マーチングバンドでフルートや指揮を担当しました。同短期大学(経済学科)に進んでからも、一般のマーチングバンドに入って活動し、アメリカの世界大会に出場しました。その際、英語をうまく話せなかったことが悔しく、短大卒業後、アメリカ ミシシッピ州立の南ミシシッピ大学に留学しました。 音楽を学んで3年間(語学学校の1年を含めると4年間)を過ごし、次第に英語での授業や会話にも不自由を感じなくなり、首席でその学科を卒業するまでになりました。
帰国後は、短大時代の読書会のゼミでお世話になった恩師の誘いで、大学の公開講座などで英語を教え始めます。数年後、杉並区の和田中学校で英語科の補助教員になる機会を得ました。大変なことも多かったですが、日々の生徒との交流はとても充実したもので、仕事にもやりがいを感じました。正式に学校で英語を教えるためには教員免許を取るべきと考え、編入できる大学を探し、2009年、和洋女子大学の英文学科に編入学しました。
当初の目的は免許取得だったけれど、佐久間みかよ教授のアメリカ文学史の授業は大変興味深く、やがてミシシッピ州出身のフォークナーの文学に心惹かれるようになり、和洋の大学院(人文科学研究科)に進学し、さらに研究を重ねました。また、立教大学にアメリカ南部文学の専門家がおられるので、そちらの授業にも通うようになるなど、充実した2年間を過ごしました。
修了後は、嘉悦の中・高と大学での非常勤講師や、公開講座などを担当して現在に至ります。中・高は共学になるなど自分がいたころとは雰囲気も大きく変わり、生徒指導など大変な面も多々あります。毎日が忙しく過ぎていく中、研究を続けていきたいという思いも強く、今も続けている立教大学の授業への参加が貴重な時間となっています。一方、家庭をもって子育てをしたいという希望も、やはり自分の中にあります。その意味で、今はまさに自分のこれからを考えている時期であります。
和洋女子大学は、落ち着いておっとりした学生が多く、皆に優しくしてもらいました。また、先生方との距離が近かったことは、研究を進めていくうえでとても大きな精神的支えとなりました。お世話になった先生方には心から感謝しています。卒論から大学院にかけてご指導いただいた佐久間教授には、本当の学びというものを教えていただき、今でも交流は続いています。学生が一歩を踏み出せば、必ず応えてくれのが、和洋のよい伝統です。その意味で、学生にはその一歩が求められるでしょう。在学生にはメディアセンターなどさらに活用してほしいです。そして、卒業生にもそうした利用がいつまでもできるよう開かれた母校であってほしいと願います。
(2015年11月27日 於本学)

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留学中、一番仲の良かった友人(Jennie 左)と
フットボールの試合のハーフタイム本番前にマーチングの衣装で(右)

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熊本から女性の第1号として文部省主催教職員等中央研修に参加

短期大学部家政科  1954年3月卒業

井上圭子さん さん

熊本に生まれ、親戚筋の農家に跡継ぎとして入るよう、勧められていたのを振り切る形で、昭和27年に和洋女子短期大学部に入り、2年間を過ごしました。
高校の家庭科の教員が和洋出身であったため、その導きでありました。紹介状を手に、26時間かけて市川に着き、和洋で藤田寅先生に会ったところ、一人で長時間かけて来たことに驚かれ、その場で入学を許可されました。
同じ地域に同級生が10人いる中、大学まで行ったのは自分だけという時代でした。熊本には大学が少なく、教員になるためにはたいてい東京方面に行き、和洋に行く先輩もいました。
父は教員で、給料の3分の1を送金してくれました。 入学した時の同級生は150人くらいでした。2年になると被服コースと生活コースに分かれ、自分は高校時代に裁縫はかなりしていたので、生活コースに進みました。
時間割は、朝から夕方までびっしりつまっており、洋服のデザインから染色の実習や調理実習、あるいは文学の授業など、いろいろな講義が思い出に残っています。少しほっとできるのは、土曜日の午後と日曜くらいで、縫っているものの残りや編み物など、やることはいっぱいありました。
 通学生と寮生の割合は、2:1くらいであったように思います。寮は学内にある兵舎で、一部屋に8人の生活です。小さな木の机を窓側に8つ並べて勉強し、リンゴ箱を2つ重ねて衣類などを入れていました。風呂は銭湯です。
夜は4つずつ枕元を合わせるように寝ていたと記憶しています。朝はごはんにみそ汁、昼は弁当、夜も少しおかずがある程度でした。里見祭では、おくるみやちゃんちゃんこなどを作って売りました。
卒業アルバムを見ると、江戸川でボートに乗ったり、雪合戦しているものもあり、修学旅行もなつかしい想い出です。病院での看護実習や、農場体験もしました。
卒業後、3分の1くらいの人は、家庭科の教員になったと思います。自分もすぐに熊本に帰り、農業高校の教員になりました。和洋で身に付けたことは、和裁・洋裁・編み物・手芸・調理と、すべてが役に立ちました。
短大卒だと、高校教員の仮免許だったので、翌年から日本女子大学の通信教育を受け、本免許を取得しました。その後、結婚をはさんで、中学の教員になり、40歳の時、熊本からは女性の第1号として、文部省主催の教職員等中央研修に参加しました。本来は管理職になるための研修だったのですが、私を気遣う夫の反対もあり、管理職にはならず、58歳で退職するまで中学に勤めました。
その後は、教育課程九州地区講習会に出席して新教育課程の説明や指導をしたり、新任教員の指導教官に任命されるなどしてきました。 昭和60年ころ、東京の丸の内ホテルで和洋の第1回同窓会があり、60人ほどが集まりました。
そして、名ばかりになっていた熊本県支部を先輩の福岡芳さんと再び立ち上げることになり、名簿作りなどから始めました。その後、福岡さんが他界されたため後を引き継ぎ、今に至っています。
学生時代にしっかり学んだことが、その後の人生を豊かにするということを実感しており、そのことを、現在の学生の方々にも伝えたいと思います。
(2016年1月30日 於KKR熊本)

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管理栄養士のリーダーとして

短期大学家政科  1977年3月卒業

河野公子 さん

【写真】国立国際医療研究センター病院栄養管理室にて

高校生のころ、食に関わる職に就きたいと考えるようになり、短大で資格が取れて自宅から通えるということで進路先を探し、高校の先生からの推薦もあって、1975年に和洋女子短期大学家政科に入学しました。
短大なので毎日のスケジュールはいっぱいにつまり、土日はアルバイトをしました。
夏休みなど長期の休暇は自分のためになるよう、有効に使いたいと考え、病院の栄養士になりたいという漠然とした希望もあったので、飛び込みで「勉強させてください」と頼み込み、小さな病院でいわば自主的な実習を受けることにしました。
休みのたびに学んでいたら、だんだん認められるようになり、卒業後の就職先として、国立療養所千葉東病院を紹介されました。当時、短大を卒業して栄養士の道に進むのは1割程度でした。
待遇は調理師助手で、野菜切りやら何やら、さまざまなことを行いました。けれど、それらは後に栄養士業務をする際に、すべて役に立ちました。無駄なことなどないのであって、貴重な経験をしたのだと考えています。
当時、国立の病院の調理師は、まったくの男社会でありました。そして、その方々が退職すると補充はなく、業務は外部に委託するようになってしまっています。そこに問題はありますが、あきらめず、少しでも病院の食事がよくなるよう、よい方向をめざしています。
働いていくうちに、やはり管理栄養士の資格が必要だと考えるようになり、千葉東病院での仕事をしながら、1人で勉強を始めました。その前に結婚し、子どもも1人いて、2人目がお腹にいる状態だったので、とにかく寝る時間を惜しんで勉強する感じでありました。家族の協力があり、ようやく取得することができました。
管理栄養士の仕事は、栄養管理や栄養食事指導があり、調理指導や献立作成があり、労務管理・経営管理といったこともあり、実に多岐にわたります。
大学では習わないことを、一つずつ現場で学び、覚えていきます。そして、自分が若い人を管理・指導する立場になってからは、それをどう伝えていくかということで、苦心しながら工夫しています。
仕事をする上でのやりがいは、先人が行ってきたことを受け継ぎ、それを発展させながら、次の世代に引き継いでいくことにあります。最も大事なことは、人と人の付き合いということです。
傾聴ということが重要で、最初は、とにかく相手の話すことをよく聞きます。そして、日頃からよく観察し、気づいたことをもとに、相手に合った指導をすることが大切なのだと思います。
国立療養所千葉東病院以来、国立病院勤務に始まり、2004年には国立埼玉病院、国立がんセンター東病院、そして2008年に国立国際医療センター、現在は8施設目の、国立国際医療研究センター病院の栄養管理室長として日々研鑽しています。
母が亡くなった後、何かを始めたくなり、仕事は続けながら、和洋の大学院(総合生活研究科)へ入って現在に至ります。今は摂食障害の方々に対する食事を研究テーマにしており、忙しいけれど、切り替えをうまくして、充実した日々を送っています。
思えば、資格をもって生きろという親の助言に従って、その場その場で多くを学び、皆に助けられながら、ここまでやってきたと感じます。和洋は学びの場としての雰囲気がよく、学生たちも、芯はあるけれどがつがつせず、優しい温かみのある人が多いように感じます。そこは大事にしてほしいです。
(2015年11月7日 於本学)

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2013年千葉県知事表彰授与

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ボランティア~社会福祉士~保育士として

家政学部生活環境学科 2011年3月卒業

松澤清香(旧姓福田) さん

高校時代は部活でソフトテニスをやっており、その関係で、和洋女子大学のことは知っていました。
高校は共学でありましたが、女子大の方が気楽かなという気持ちもあり、和洋の家政学部生活環境学科を受験しました。 入学は2007年4月。この学科では社会福祉士の資格が取れるようになっていたので、そのためのコースに所属し、卒業する年の3月に合格しました。
あわせて、社会福祉主事・ピアヘルパー・フードスペシャリストの資格も取得しました。 それらと並行して、1年次にボランティア実習の授業をとり、障害をもつ子どもの施設に行ったことがきっかけで、その施設が家から近いこともあり、4年間、週に1~2回ほど通い続けました。
そして、そこの先生と話す内に、障害児の施設で働きたいなと考えるようになり、保育士の資格があるとよいというアドバイスをもらいました。
また、母が保育士だったことから、将来の職業の中に保育士というのはもともと選択肢の一つとしてありました。そこで、通信講座などを利用して、3年生の時には保育士の資格も取得しました。なお、新しい法律で幼稚園教諭の資格も必要となり、最近その科目も取り終わって申請をしています。
3年次に、障害児の入所施設に実習に行き、厳しい指導を受けた分、勉強することも多く、自分にはどのような支援ができるのかを考えるようになりました。実習で現場に触れることはとても大事で、乗り越えなければならない壁を自覚するようにもなりました。その時点では、保育士と社会福祉士の両方が活かせるところで働けるとよいな、と思っていました。そこで、最初は民間の障害児施設を探し始めたのですが、公立に行けばセンターなどにも異動できることを知り、こども発達学科の先生から、自治体を受けてみるとよいというアドバイスをもらい、かなりぎりぎりになって受験の登録をしました。
その後、2011年に市役所に入庁し、公立保育所に配属となります。
昨年の5月には中学校の同級生と結婚をして、仕事との両立が始まりました。この職に就いて強く思うことは、人の成長に関わることができる職業だということです。一人ひとりのためにあれこれ案を練って、それによって、子どもが成長していくことが実感できた時、すばらしいことだなと実感します。毎日が勉強です。
その基本として、生活に関わることの全般を和洋で学べたことに、とても感謝しています。在学中、メディアセンターのお世話になったこと、いろいろな先生から親しく指導していただいたこと、仲のよい友人に恵まれたことも忘れがたいです。
本当に温かい雰囲気のある大学だったなと思います。勉強したい学生が一歩を踏み出しやすいような、和洋であってほしいと願います。
(2016年1月16日 於蔵のギャラリー結花)

 

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三代の和洋生、そして母の会会長に、今再び仕事につく

文家政学部国文学科  1983年3月卒業

川瀨雅代さん さん

1979年、和洋女子大学附属国府台女子高等学校から和洋女子大学文家政学部国文学科に進学し、楽しい7年間を過ごしました。卒業後の数年は、家事の手伝いをしながら、第一志望であった東京都の教員採用試験(中学)を受けていましたが、狭き門で合格は叶いませんでした。
その後、高校・大学と一緒だった友人の紹介で、宝石のメーカーに入社しました。バブル経済の時代ということもあり、商品部から入社2年後に、女性だけでブランドを展開する企画チームのチーフに抜擢されました。
商品開発やアンテナショップ調査等、一から物を作り上げていく楽しさを仲間とともに味わいました。しかし、その3年後に結婚し、出産を機に退職しました。
仕事をやめることは少し残念でもある半面、これが人生の変わり目になるなという気もしていました。結婚して入った家は国府台にあり、義母も和洋の出身です。夫の両親は隣に住み、さらにその両親も並んで住んでいました。
自分とその母・祖母との関係が良好で、いつも三人一緒という具合でありました。自分の実家は商売をしていたため、勤め人の家庭というのが、新鮮で楽しくもありました。何かにつけ感謝の言葉をもらい、それがうれしくてまたがんばるという、よい関係を築くことができました。
子育てに関しても、みんなでやっていくという感じで、それが負担ということはありませんでした。気になったことはすぐ言えるという関係が、義母たちとの間にはあったこともよかったです。
夫に関しては、私たちを見守りながら、要所は押さえるという感じでありました。土地柄というもあり、娘二人は、生まれた時から和洋に行かせようということになり、中学・高校と和洋に通いました。
娘たちを見守り、また学園や先生方のお手伝いができないかと、和洋の母の会の役員になりました。その活動の中でも、学ぶことばかりで、最後の4年間は会長を務めさせていただきました。
いろいろなことを知りたいという好奇心の強いことが、うまく作用したのだと思います。その後、夫が退職したこともあり、近くの国立国際医療研究センターの非常勤職員となり、現在に至ります。栄養事務がその業務であり、楽しく働いています。
 和洋の同級生とは、今でも付き合いがあり、仕事を紹介してくれたのもそうした友人です。同窓会などとの関係も自然な形で続いています。その折々でいろいろな役目をさせてもらい、無理をせず、楽しんでやってきました。
本当に和洋に入ってよかったし、何かお返しができればと思っています。和洋の学生は、安心して見ていられるというところがあります。いろいろなことにチャレンジして、社会性を身に付けてほしいなと願っております。
(2015年11月18日 於本学)

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九段の和洋専門学校から熊本で教員に

和洋女子専門学校  1942年9月卒業

大澤敬子 さん

朝鮮忠清南道大田高等女学校を卒業し、しばらく実家の醸造業を手伝った後、和裁を習いに東京に出してくれるよう、父に頼んだところ、東京のおばが和洋を探してくれ、昭和15年、20歳で九段にあった和洋女子専門学校に入学しました。
勉強をするならやはり東京という思いがあったからであります。最初は神楽坂の寮に入りましたが、やがておばの家に同居し、それからは卒業まで新大久保から飯田橋まで通学をしました。
卒業前には学院(現在の和洋九段女子中学校高等学校)での教育実習もあり、卒業時には教員免許が取得できました。戦時中で、半年の繰り上げとなり、卒業したのは昭和17年の9月です。
東京への空襲も一度あり、物資もかなり乏しくなっていました。そのころ、男子学生は制服・制帽で、銃をかついで出征して行きました。 学生は、東京の人より地方から来ていた人の方が、少し多かったように記憶しています。
授業は、毎日、9時から夕方までありました。アルバムの写真にあるように、100名以上が、低い台を前にして畳の上で座り、黒板を写したり、縫い物などの作業をしました。私自身は、日本刺繍が一番の楽しみでした。
ハンドバッグなどもいろいろ作りました。最初のころは、新宿で少し遊ぶということもあったけれど、戦時下に入ったこともあり、基本的にはひたすら授業を受け、学校に行ったり来たりの2年半であったように思います。
卒業前、学院の教員として残らないかという話がありましたが、遠い所での就職は駄目だと父から反対され、それは叶いませんでした。熊本に帰り、18年の4月からは、高等女学校の家庭科の教員になりました。ところが、戦局が詰まっていくにつれ、授業よりも農家の手伝いに行くことの方が多く、それよりは軍隊の手伝いの方がよいと考え、19年8月に熊本師団司令部の事務職に移り、そこで終戦を迎えました。
国税局固有財産課に移動した後、結婚をして退職をしました。自宅で頼まれた縫い物をしたり、子育てをするなどして、10数年を過ごします。 外に出る仕事がしたくなり、昭和36年から保険会社に勤務して好成績をあげます。古いストッキングを集めてジュータンを作り、日本テレビで発表したこともありました。
その後、常盤家政専門学校で教員を募集していると知り、和裁の教員として就職します。約10年後、夫が定年退職したのに伴い、同校を退いて自宅での教室を始めます。同時に、週に2回、市の婦人センターでの和裁講師を引き受け、自宅の教室と掛け持ちする形で、28年間を過ごしました。辞めたのは80歳を過ぎてからでした。
その間も、頼まれて何かを縫うことは日常的にあり、本当に何でも縫ってきました。中でも、古い着物を解いて、何にしようかと考え、新しい物に作り替えるのが楽しい仕事であります。 一人暮らしになって約20年が経ちます。今も週に3日は自宅に生徒が来て、その日はずっと縫い物をしています。
また、作った物を工芸館で展示することもあります。80歳から書道も始め、今も続けています。とにかく、裁縫の基礎はすべて和洋で学び、それが自分の人生を支えてきました。
現在の学生にも、好きなことを選ぶのが一番だと伝えたいです。来年は展示会を行うので、命を大切にしてぜひ成功させたいと考えています。
 (2016年1月30日 於KKR熊本)

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大澤さん制作の着物を使ったポーチ