和洋女子大学の起源は明治30年、1897年に開設された「和洋裁縫女学院」に始まります。創設者の堀越千代は、当時遅れていた女子教育を憂い、自宅の庭を開放して女子教育に乗り出します。当時は明治政府の方針で男子の教育が優先され、女子教育は後回しとなっていました。一方で明治後半は国際交流も進み外国人女性が社会で活躍する様を見て、日本の女子にも近代的な教育をすることが、新しい社会を構築する源になると考え、当時最先端の洋裁を教え、子どもには和服ではなく動きやすい洋服を着せることを推進し、日本の社会風俗の改革を目指していました。教育においては、明治政府の進める家父長制の下であっても、女子は日常の家事に埋没せず、やるべき家事や作業はできるだけ合理的に、科学的に行うことを教え、そして何よりも女子が社会に目を向けることを生徒に説いています。1916年から1936年までの20年間にわたって同窓会報に寄稿された堀越千代の「論説講話」には、「身の回りの仕事を放置することはならない、そしてさらにならないのは、身の回りの仕事に埋もれ、社会を見ない姿勢であり、外の社会を見極める教養を高め続けなさい。また、やるべきことを成さず、読書や音楽に興じるのは論外である」と嗜めています。この言葉は、男子と対等に活動する外国人女性の姿、立ち居振る舞いから学んだと講和の中に記しています。そして男子と対等に意見の言える教養を日本の女子も備えるべきだと述べています。こうした創設者の思いは「自営の力」の育成として、現在の和洋女子大学にも残されています。この言葉は、和洋女子大学が新制の女子大学になる前の和洋女子専門学校の校歌にあります。ひとりの独立した人として生きていく力を養うことが「当校の目当てなり」と歌われているのです。そのため当時の教育内容も和裁、洋裁などの家政科目の習得に留まらず、国文学、漢文学、化学などの多様な学びを数多く取り入れ、女子の「教養」を高めることに力点が置かれていました。併せて、校歌では「女子の品性を高めまし」と結ばれています。今で言えば、女性としてのプライドを持ちなさいと言えるでしょう。つまり、創設当時より男子に対してどうあるかという女子教育ではなく、女子をひとりの人として育成することが尊ばれてきた歴史を有するのが和洋女子大学であるといえます。現代に翻ってみて、日本の女子の置かれた環境は、戦後に大きな転換期を迎えましたが、今でも4和洋女子大学総合研究機構代表 岸田 宏司ジェンダー・ダイバーシティ研究所の設立経緯
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